江戸 幕府 と 大名

Add: ojitemuj20 - Date: 2020-12-12 16:59:06 - Views: 5768 - Clicks: 7858

(徳川家綱 出典:Wikipedia) 武断政治は、徳川家康、2代秀忠、3代家光が行っていた武力によって家臣を統制する政治。大名たちに改易など厳罰をあたえることで反抗できないようにし、統制を図りました。 一方の文治政治は、4代家綱をはじめとし5代綱吉、6代家宣、7代家継が行っていた朱子学(儒学)によって統制する政治のことです。 朱子学の学者たちは幕府や諸藩の重要ポストに就いて、政治に参加しました。 武断政治と文治政治の違いを簡単にいうと、人を統制する際、武力に頼るか、学問に頼るかの違いといえます。. See full 江戸 幕府 と 大名 list on nihonsi-jiten. 第9代将軍・徳川家重 5. 建て増ししていき、迷路のような造りになっていきました。 そんな江戸城で政治を取り仕切るのは、日頃将軍が執務する本丸表ですが、. 先ほど出てきた戦の名前、関ヶ原の戦いが起きた頃やそれ以降に徳川氏に従う態度を示した大名のことを外様大名と呼んで区分しました。戦国時代に大きな力を持っていた勢力の家柄が多数この外様大名の中に存在しています。国内を統治するにあたり重要な地域からは遠ざけられ、幕府の政治上重要な役職に抜擢されるようなこともありませんでした。ただ広大な領地を所有することは幕府からも許可され、自分の領地を統治し、江戸幕府警護のために軍事力の提供をしたり江戸地域の工事などをおこないました。加賀藩の前田家(約100万石)や薩摩藩の島津家(約70万石)、仙台藩の伊達家(約60万石)、熊本藩の細川家(52万石)などは大変大きな領地を持っていた大名として有名ですが、いずれも外様大名です。 今回は歴史の授業でもよく扱われる話題、大名の種類を取りあげました。江戸時代の大名の種類についてはそれなりに関心を持たれる方も多いようですね。具体的な大名の区分の定義はどのような感じだったか改めて確認したくこのようなテーマで記事を作ってみました。個人的には親藩、譜代、外様に分類されることは何となく覚えてはいますが、記事を作っていて親藩の大名があまり政治上重要な役職につくことはなかったということを知り、その点はあまり意識したことはなかった気がします。親藩のお殿様が政治上重要な役職につくことが少なかったのは血縁の近い者同士による幕府内での権力争いになってしまうことを防ぎたいという配慮が幕府中枢にあったからという見方があるようです。外様大名が要所から離れた領地を所有することになったり幕府の役職に選ばれることがなかったのは謀反(むほん)の恐れが他の区分の大名に比べ大きかったからというのは想像しやすい話のような気がします。幕府の重要な役職を務めることの多かった譜代大名に対して一般的に大きな領地を与えなかったというのも幕府に背いた場合に備えての配慮だったと言われているそうです。全国を安定して治めるために江戸幕府はいろいろな工夫をしていたということがこういった大名の扱いからも、うかがうことができます。 今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 ※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。 江戸幕府が大名に課した規則について触れている話「江戸時代、幕府は参勤. 大名の区分 大名とは.

See full list on wakariyasuku-rekishi. 江戸幕府は全国の大名が貿易を行う事を禁止すると同時に、外国が日本の政治に関わらないようにする対策も怠りませんでした。この点も、江戸幕府が安定した理由として言われる事があります。 スポンサードリンク この記事のまとめ. 江戸時代の 大名 とは 石高1万石以上の所領を禄として幕府から与えられた藩主 のことである。. 第2代将軍・徳川秀忠 1. 第7代将軍・徳川家継 3.

第4代将軍・徳川家綱 2. (徳川家康 出典:Wikipedia) 武断政治(ぶだんせいじ)とは、徳川家康から2代秀忠、3代家光にかけて行われた武力で家臣を統制する政治のことです。 家臣である大名を圧倒的な武力で威圧し、逆らう者がいれば、領地や身分をはく奪して藩を取り潰す改易(かいえき)とよばれる厳罰を下しました。 大名が恐れる厳罰は主に、改易・減封・転封の3種類。一番厳しかったのは改易で、大名の身分をはく奪し、領地を取り上げて大名の家を取り潰しました。 減封は領地の削減、転封は大名の領地を移動させることで国替(くにがえ)とも言います。 では、家康・秀忠・家光が、諸大名たちにどんなルールを課したのか、具体的な政策を解説していきます。. 3代将軍家光は1653年、新たに武家諸法度(寛永令)を発布。 大名が1年おきに領国と江戸に移り住む参勤交代を制度化した。 これは、閉鎖な時代に相応しい形で諸大名の軍事力の総動員を目指すものだった。 勿論、大名らに大規模な引っ越しを強制する事で、国力維持を困難化する目的もあった。.

2さんの回答で、十分に分かったのであれば、この回答は蛇足です。 無視してください。幕府でも大名でも、直轄地という租税を幕府や大名家. See full list on shuchi. 第10代将軍・徳川家治 6. 第44回 江戸 幕府 と 大名 江戸幕府の仕組み 幕藩体制の構造 それでは今回は、徳川家康や徳川秀忠らが構築していった江戸幕府の仕組みを見ていきましょう。 1.大名の区分 基本的に、3つに区分されています。 親藩(しんぱん)・・・徳川家康の男系子孫。詳しくは後述し. 大名が守っても守らなくても、江戸幕府(えどばくふ)にとっては損にはならない内容となっていたのである。. ここで歴代の征夷大将軍をご紹介いたします。 1.

東南アジア方面との貿易の管理を長崎奉行に命じる; 東南アジア方面への日本人の往来を禁止; 九州各地にいる中国人は長崎のみで集住でさせる; ポルトガル人を出島に隔離させる See full list on rekishi-memo. 江戸幕府ではこれまでと同様に親政を行っていた将軍もいますが、多くの将軍は政治を老中、大老、若年寄などに委ね行ってきました。 権力の集中を避けるために多くの役職が作られ、主要な役職には複数名を置いたとされています。 また1カ月交代で政務を交代するなどしたようです。 江戸幕府の最高権力者は、もちろん将軍ですが、将軍を支えるために設置された役職が多くありました。. 江戸幕府は1634年09月25日(寛永11年08月04日)に、諸大名に対する政策として、譜代大名に、参勤交代を終えた大名が国元に戻っている間、妻子の江戸居住を命じた。 また大名家臣の子弟を質として江戸に置くことを命じられ、妻子は江戸の邸宅に移り住んでいた。. 江戸幕府が始まり、幕府が最初に手をつけたことは各地にいる大名をいかに幕府に従わせるか、また各大名の勢力を弱め、幕府の安定を維持させるかということでした。 大名統制の先駆けとなるのが、一国一城令です。. 武断政治では、武家諸法度に違反した大名はもちろん、将軍が個人的に気に入らない大名にも何らかの理由をつけて改易処分にしました。 ここでは改易にされた何人かの大名をご紹介します。徳川ファミリーである親藩であっても容赦なしだったようです。. 江戸 幕府 と 大名 第6代将軍・徳川家宣 2. 江戸幕府 大名 江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年に徳川家康が征夷大将軍に任官し、江戸(現、東京都)を本拠として創立した。. 第13代将軍・徳川家定 1.

1627年には幕府と朝廷が衝突する紫衣事件(しえじけん)が起こった。 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が幕府にはからずに高位・高徳の僧に紫衣を与えた時、幕府は紫衣を取り上げて僧らを流罪とした。 後水尾天皇はこれに耐えかね、1629年、幼少の明正天皇に譲位してしまった。 こうした事件を経て確立された幕藩体制は、260年間の平和を支えた。. . 諸大名は参勤交代の費用に大いに苦しめられたという。 大名行列の人数は家格、石高によって異なり、大体数百人位であったが、最大の加賀藩では4000人にもなった。 加賀藩は、1635~1862年の約230年間に、参勤(金沢から江戸へ)を97回行ったが、その距離約480㎞、移動日数は12泊13日であった。 かかる費用は、旅籠代、川越代、幕府高官への土産代などで、1泊した旅籠代だけで、現在の金額で約4000万円も掛かった程であった。. 江戸 幕府 と 大名 第3代将軍・徳川家光 1. 大名は幕府との関東から三とおりに区別されていました。 幕府の親類の大名を親藩といい三家(紀伊・尾張・水戸の徳川家)や三卿(田安・一橋・清水の三家)があります。 徳川氏の三河時代からの家来であった大名を譜代といい、また関ヶ原の戦いの後から幕府に従うようになった大名を外様といいます。 そして、このような大名の家柄によって江戸城にいるときの部屋や席もわかれていました。 大名たちは、幕府から領地をわけてもらい、それを自分たちのやり方で治めていました。 幕府の大切な法令はそれぞれの領地でも守らなければなりませんでしたが、その他は、自分の方針を立てて政治を行いました。 大名は、自分の領地では将軍(幕府)と同じような強い力をふるいました。 江戸時代の大名の領地を藩といいます。 藩というのは中国の言葉で「かきね」という意味です。 大名は幕府を守る「かきね」であるというのです。 大名の政治の仕組みは幕府とよく似ていますが形は、ずっと小さいものでした。 とにかく、こうして江戸時代の中ごろまでに幕府と藩の仕組みが出来上がり全国をしっかりと治めるようになりました。. 武断政治によって、牢人が増加し治安が悪化、さらに、反幕府的な事件も立て続けに起こったことで、江戸幕府は武力で押さえつける武断政治は不満や反乱のもとになり、安定した統治はできないと考えるようになりました。 そこで、4代将軍家綱から武力ではなく教育や学問によって国を治める文治政治(ぶんちせいじ)へと移行することになりました。 文治政治で特に朱子学を奨励したのは、朱子学は上下関係や礼儀を重んじるため、幕府に従う人材を育成するのに都合が良く、家臣の統制をとりやすかったからです。 この武断政治から文治政治への流れは自然なものでした。 関ヶ原の戦い、大坂の陣と家康が江戸幕府を開いた当初は戦国時代を引きずって、まだまだ安定した世の中ではありませんでした。そのため、大名を統制し安定した江戸幕府の基盤を築くためには乱暴なくらいの武力が必要でした。 しかし、徳川将軍が3代まで続いたころには幕府の支配体制も整い、武力に頼る必要がなくなりました。 逆に、その安定を維持するためには、不満や反乱のもとになる武断政治はかえって命取りになります。そこで、朱子学によって幕府に従う人材を育てる文治政治へと変わってい.

江戸幕府3代将軍・徳川家光 もまたキリスト教の弾圧政策として. 一般に大名を類別する際に使われる親藩・譜代・外様は江戸幕府が用いた史実はない。 江戸城本丸御殿の殿中席を基準に類別したものと思われる。 御三家(ごさんけ). 第12代将軍・徳川家慶 8. See full list on history-men. 武断政治による改易処分によって、多くの大名家が取り潰されました。 そして、仕える主君を失った牢人(ろうにん)たちは40万人にものぼり、町に溢れるようになりました。 仕事がない労働者が反乱を起こすのは、方法の違いこそあれ、いつの時代も同じです。 牢人となった人たちの中には、幕府への不安から打倒幕府の計画を企てる人たちもあらわれました。. . >江戸時代の太平が続くと次第に大名の権威と格式を誇示するための大規模で華美なものに変容した。 >その背景には、徳川幕府が大名行列のために出費を強いることで >諸大名が経済的実力を持つことを抑制しようとする政治的意図もあったという説もあるが、.

See full list on kojodan. 幕府直轄地や、譜代大名が多いが、その譜代大名はどのような配置なのか? 中部地方の大名配置図 加賀百万石の前田家、御三家尾張家はどのような領地を所有していたのか?. このように、強力な領主権を持つ将軍と大名による幕府と藩が土地と領民を統治する支配体制を幕藩体制と呼びました。 この体制は、3代家光の時代までに確立されました。 江戸幕府は、この幕藩体制を中心に政治が行われていきました。. 豊臣政権の内部争いが原因で始まった関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は慶長8年(1603)に初代征夷大将軍となります。 江戸幕府は徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603)からはじまった政権です。 亡き豊臣秀吉が所有していた領地を徳川家康は没収し、慶長10年(1605)には嫡男・徳川秀忠に将軍職を譲りました。 徳川家康が2年ほどで将軍職を譲った理由として、征夷大将軍は代々、徳川家が継いでいくもの。とアピールするためではないかとされています。 その後、征夷大将軍は代々、徳川家によって受け継がれ江戸幕府は約260年間続いたとされ、その間、争いなどはなく平和な時代が続きました。. 第14代将軍・徳川家茂 1. では、実際の登城の様子を当のお殿様に語ってもらおう。最後の広島藩主・浅野長勲(ながこと)の証言である。 最後の広島藩主である浅野茂勲(もちこと、明治に入ると長勲と改名)は昭和に入り、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)の質問に応える形で殿様の日常を語っている。鳶魚は江戸の社会風俗の記録者として知られるが、長勲の回顧録に登城について述べた箇所があるのだ。 浅野家の上屋敷は現在の霞が関にあったが、歌川広重(二代)の錦絵に浅野家の上屋敷と福岡藩黒田家の上屋敷が並ぶ様子を描いた「東都名所霞ケ関全図」がある。真ん中を走る霞が関坂を挟んで、右手が浅野家の上屋敷、左手が黒田家上屋敷という構図だ。 登城するため長勲が霞が関の上屋敷を出る時刻は、午前8時(五ツ時)だった。将軍に拝謁するのは、その2時間後の午前10時(四ツ時)。長勲は江戸城の目と鼻の先の屋敷に住んでいたが、なぜ2時間も前に屋敷を出なければならなかったのか。 登城するのは浅野家だけではない。江戸在府中の大名すべてが江戸城に向かって行列を組むからだ。 三百諸侯の半分が江戸在府である上に、幕府の役職に就いている大名も登城するわけだから、200ほどの大名行列が城に一斉に向かうことになる。 浅野長勲の回顧録には、登城時の供連れの様子が紹介されている。行列の後方に「駕籠」とある。長勲が乗っている駕籠だ。 これによれば、浅野家の行列の人数は80人ほど。広島藩浅野家と言えば40万石を超える外様の有力大名であり、お供の人数は多いほうだが、それでも200もの大名行列となれば、江戸城に向かう大名行列の総人数はゆうに1万人を超えただろう。 200もの登城行列が城に向かう様子はまさしく壮観で、江戸の名物の一つになっていた。わざわざ見物しに来る者も多く、登城日の江戸城城門前は観光名所としても賑わっていた。 しかし、江戸城に向かう大名にしてみると、物凄い混雑のなか行列を向かわせることになる。まさに江戸城への「通勤ラッシュ」の光景が展開されたはずだ。 長勲の証言によると、行列を3つぐらいに分けて、間隔を置いて城に向かった。80人の縦隊となると、およそ200~300メートルの長さとなり、通行の迷惑にもなるからだが、その分、城門までの時間も掛かるのは避けられなかった。混雑も増しただろう。 そして、自分よりも格上の大名の行列にぶつかると、道を譲らなければな. 江戸時代の大名の種類 石高が1万石以上ある武士のことを大名と言いますが、江戸時代には3種類の大名がありました。 親藩 江戸 幕府 と 大名 徳川の血をひく大名です。 中でも尾張徳川家(おわりとくがわけ)、紀伊徳川家(きいとくがわけ)、水戸徳川家(みととくがわけ)は御三家.

1615年の大坂夏の陣で大坂城の豊臣家を滅ぼした徳川家康は、同年、崇伝(すうでん)らにはかって武家諸法度(ぶけしょはっと)(元和令)を制定した。 政治上の訓戒を定めたほか、大名の城郭を無断で修築する事を禁止し、さらに、私婚の禁止などを全国の大名に強制した。. 安政5年(1858)6月24日、水戸前藩主・徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕(慶勝)、福井藩主・松平慶永(春嶽)の4大名が不時登城を強行する。5日前の19日に、大老・井伊直弼が時の孝明天皇の許可(勅許)なしに日米修好通商条約を締結したからだ。斉昭たちは直弼を面詰するが、暖簾に腕押しの問答となる。何の成果もなく、4人は下城せざるを得なかった。 7月5日、直弼は将軍・家定の意思と称して斉昭を謹慎、慶恕と慶永に隠居謹慎を命じた。不時登城が処罰の理由である。斉昭たちの行動を逆手にとり、将軍継嗣問題で「政敵」だった一橋派大名の追い落としに成功したことは、幕末史ではよく取り上げられる出来事である。 以下、登城日を具体的に見てみよう。 毎月1日、15日、28日が定例の登城日(「月次(つきなみ)御礼」と称される)とされていた。江戸城に登城して将軍に拝謁した後は、そのまま屋敷に戻ることになる。 年始や五節句(3月3日の桃の節句や、5月5日の端午の節句など)、そして徳川家康が江戸城に入った日とされる八朔(8月1日)など城中で執り行われる儀礼の日も、江戸在府中の大名は登城が義務付けられた。 若君誕生のような慶事の時にも、お祝いを申し述べるため登城する。年間で見ると、登城日は20~30回ということになるだろう。 こうした登城日に、江戸在府中の殿様たちは江戸城の周りで拝領した屋敷を出て、一斉に江戸城へと向かうのである。. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 江戸幕府の用語解説 - 徳川幕府ともいう。慶長年2月徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸に開いた中央集権的武家政権。慶応年 10月徳川慶喜による大政奉還まで 15代 265年間存続。 700万石に及ぶ天領 (直轄地) と多数の家臣を背景にその統治. ポイント解説 江戸幕府は支配体制を維持するため、大名と朝廷をうまく統制する必要がありました。大名については親藩・譜代大名・外様大名に分類し、さらに武家諸法度という法律で統制。朝廷に対しては禁中並公家諸法度を出して政治への関与を禁止しました。. ② 江戸幕府の成立 1603(慶長8)年、全国の大名を指揮する正当性を得るため家康は 征夷大将軍 に就任し、 江戸幕府 を開きました。 征夷大将軍に就任するためには源氏でなければならない、というジンクスがあったため、家康は源氏に属する新田氏の子孫で. 江戸幕府は将軍家の家政機関であるという建て前上、幕閣の要職には、幕末及び越智松平家の例外を除き、譜代大名以外からは登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。親藩出身者を幕府の役職に就任させたり、外様の大藩を政治顧問として幕政に. 1603年、家康は諸大名に江戸城と城下の大規模な造成事業(天下普請)を命じた。 日比谷入江を広範囲に埋め立て、小名木川や道三堀などの水路.

江戸幕府の大名諸侯・旗本などの格式についてなのですが、武家官位と幕府の役職ではどちらが重視されていたのでしょうか?例えば、官位だと江戸町奉行や寺社奉行、老中、若年寄りなどより高家の方が高位にある場合 がありますよね。江戸幕府はこういったランク付けが大変難解だという. 徳川家康が開いた江戸幕府は第15代将軍・徳川慶喜の代まで約260年間続き、幕藩体制がしっかり機能していたこともあり、その間、戦争などはなかったとされています。 そんな江戸幕府も、徳川家の継承者不足や、欧米列強の開国要求に応じることとなり慶応2年(1867)に第15代将軍・徳川慶喜の代で朝廷に政権を返上したことによって約260間続いた江戸幕府は終わりを迎えました。. また、諸大名を親藩(しんぱん:徳川氏一門)、譜代(ふだい:三河以来の家臣)、外様(とざま:関ヶ原の戦い以降に臣従した大名)に分類。 外様大名の大半を辺境の地へと移し、その領国周辺に幕領(ばくりょう:幕府直轄領)や親藩・譜代大名を配置して、監視体制を強めた。. See full list on iineiineiine. から江戸幕府がどのようにして成立したのか、江戸幕府が行った大名統制、また朝廷や寺 社の統制はどのようなものだったかを理解する。 − 38 −. 第11代将軍・徳川家斉 7. 1615年、幕府は武家諸法度とともに禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定する。 これは、古の時代から日本を治めて来た朝廷の統制を図るものであった。 「天子御芸能の事、第一御学問也(※)」など、天皇の行動を規定した為、朝廷は幕府に対して不満を招いた。 ※天子として行うべき学問・芸術のなかで、第一は御学問、ついで和歌、これらの習学が専要であるとする。という事。. 幕府はまた法律の力で大名を抑えようとしました。 豊巨氏が滅んだ1615年(元和元年)にだされた武家諸度がその代表的なものです。 これは家光のときに、はっきり整えられましたがその中には、幕府の許しがなくて城を築いたり大名の間で結婚をしたりしては、いけないと決められています。 しかし、一番大きな決まりは参勤交代です。 参勤というのは、戦国時代に家来が大名の城下町に勤めにでることから始まったのですが幕府は、はっきりこれを大名の義務にしてしまったのです。 大名は、一年領地に住むと次の一年は、必ず江戸に住むように決めらけれ大名の妻や子どもは、人質の形で、ずっと江戸に住むようにされました。 参勤交代で、江戸と領地を行き来するときは、たくさんの家来をつれて、長い行列をつくるのです。 その費用は、たいへんなもので、そのため大名たちのカは非常に弱められました。 幕府は、この他にも江戸や名古屋の城を築いたり川の堤防を直したりするときにも度々、大名に手伝わせました。 こうして、大名は幕府から、いろいろな取り締まりを受けて幕府にどうしても背くことができないようにされました。.

初代将軍・徳川家康 2. 約260年間も平和な時代をもたらした江戸幕府は、一体どのような仕組みであったのでしょうか。 徳川家康が征夷大将軍となった際、約260人の大名と主従関係を結んだとされました。 将軍が行っている政権を幕府と呼び、主従関係にある大名家を藩と呼びます。 また将軍、大名で行われる複合した体制を幕藩と呼びました。 江戸幕府においてはこの幕藩体制を中心に政治が行われます。 徳川家康が江戸幕府を開いた時代は合戦も少なくなり人々が安定した平和のもとで暮らし始めた時代でした。 よって、これまで形として見えていた家臣の将軍に対する忠誠心が確認しづらくなったため、この主従関係を確認するため、参勤交代や築城、治水工事が各藩の大名に課せられます。 この他にも、公家や朝廷を統制するために禁中並公家諸法度を制定するなど天皇を政治実務から完全に排除しました。. 1651年3代家光死去し、4代家綱が就任するタイミングで、兵学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)が丸橋忠弥(まるばしちゅうや)ら2千人もの牢人とともに江戸、駿府、上方(京都) で一斉に挙兵する計画を企てました(慶安の変)。 しかし、密告者がいたことで計画は失敗に終わりました。 慶安の変の翌年、1652年には、戸次庄左衛門(べつきしょうざえもん)ら複数の牢人が老中を暗殺しようとしましたが、これも失敗に終わりました(承応の変)。. 第5代将軍・徳川綱吉 1. 江戸藩邸で隔年ごとの生活を強いられた諸大名は江戸在府中、何をしていたのか。 老中などの幕府の役職に就かなかった大名の場合、江戸城に登城して将軍に拝謁したり、江戸城内で執り行われる様々な儀式に参列することが、幕府に対する最大の公務(義務)となっていた。 しかし、一口に江戸城への登城と言っても、当の大名や藩士たちにとり、実に大変なことだった。江戸参勤ほどの規模ではないものの、大名行列を組んで江戸城に向かうが、これが物凄い混雑を引き起こす。それが回り回って、自らの登城に時間が掛かる結果を招いたのである。 登城日は、あらかじめ幕府から決められていた。 もちろん、公務であるから勝手に休むことなどできない。病気などで登城できない場合は、その旨をあらかじめ届け出る必要があった。届け出もなく登城しなかったとなると、ただでは済まず処罰対象となる。.

家格 幕府が定めた大名家の格付けです。 石高 歴代当主が与えられた最高石高です。 殿席 大名が江戸城に登城した際に待機する控えの間(詰所)です。 官位 歴代当主が与えられた最高官位です。 江戸 幕府 と 大名 爵位 1884年(明治17年)の華族令制定時に与えられた爵位. 第8代将軍・徳川吉宗 4. 徳川氏も、もとは大名のひとりでした。 秀吉に従っていたころは他の大名と同じ仲間だったのです。 ところが、関ヶ原の戦いで徳川氏が勝利をおさめると徳川氏と大名の関係はすっかり代わってきました。 家康は、この戦いで西軍についた91人の大名の領地を取り上げ四人の領地をけずりとって、それを徳川氏の領地にしたり東軍に味方して、手柄を立てた大名にわけてやりました。 それだけではありません。大名の国替えを徹底的きに行いました。 幕府のお膝元の関東は、これまで通り、幕府の領地と旗本・譜代大名で固め東海道・中山道・近畿地方も 大体、それと同じ方針をとりました。 関ヶ原の戦いまで、肩を並べていた大名は、なるべく東北・四国・九州などの遠いところに移しました。 幕府の方針は、徳川氏と親しい大名と親しくない大名、また大きな大名と小さな大名とを隣り合うようにし、お互いに、抑え合うようにしたのです。 そうすれば、大名どうし力を合わせて幕府に背くことが、できなくなるからです。 大名が領地を取り上げられたり国替えされることは、この後、一層盛んに繰り返されましたが、それによって、大名は古い領地との結びつきを切られ、政府に背くことができなくなりました。 これを荻生狙徠という学者は「原野に、生えている草を引き抜いて植木鉢に植えるようなものだ」と言っています。 後には、将軍が代わったり大名が国替えする度に将軍の朱印状が与えられるようになりました。 これは、全国の土地は将軍(幕府)のものであり、それを特別の御恩で大名にわけてやるのだという考えを 大名たちに植え付けるためでした。.

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