ガダルカナル 戦

ガダルカナル

Add: orowov61 - Date: 2020-12-11 08:08:00 - Views: 6597 - Clicks: 8123

「ガダルカナル争奪戦は一面補給戦でもあった」 こう記したように、この戦闘は、兵站の重要性がとわれたものでもありました。 兵站とは周知のように、戦場の後方にあって軍需品、食料等の供給や補充を行い、また連絡線の確保などにあたる機関のこと. See full list on historyjapan. 5の紹介は「ガダルカナル島をめぐる戦い(1)経緯-日本軍前進基地の奪い合い」末尾にあります)。 また、戦闘経過の解説も、臨場感あふれる筆致で、現場にいるかのような感覚を覚えます。ガダルカナル島後半戦がどのような戦いだったのか、多角的に知りたい、考えたい方にオススメの一冊です。以下の画像をクリックでAmazonで購入できます。 ●主な取扱時期:第二師団夜襲、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、輸送作戦、ガダルカナル島撤退作戦 <関連記事> ガダルカナル島をめぐる戦い(1)経緯-日本軍前進基地の奪い合いガダルカナル島をめぐる戦い(2)激闘-陸・海・空の死闘 <概要>形勢逆転の太平洋戦線-MO作戦・ミッドウェー海戦・ガダルカナル島をめぐる戦い 本項は 1.

See full list on ガダルカナル 戦 rekishi-memo. ガダルカナルをめぐる水上砲撃戦を、シンプルなシステムで再現。 特徴として、艦隊機動に制約が多く、毎ターン砲撃および雷撃可能距離が変動するため、思い通りにならない戦況をコントロールする手腕が問われる。. これまで無謀な作戦を強行したと非難されてきたガダルカナルの陸軍だが、部隊を率いる一木大佐は作戦を続けるべきかどうか司令部の判断を仰ごうにも、連絡できない状況に置かれていた。 陸軍司令部があるラバウルはガダルカナルから1,000kmと遠く、無線が届かない。そのため、海軍の潜水艦が中継することになっていた。ところが、この共同作戦中に潜水艦は任務を放棄し、持ち場を離れてしまう。いったい何が起きていたのか? 連合艦隊の動きを記録した戦時日誌に、潜水艦が離脱した原因が書かれていた。 「9時40分。空母を含む敵機動部隊を発見」(連合艦隊の戦時日誌) この日の朝、偵察にあたっていた海軍機がガダルカナル島の沖合でアメリカの空母を発見。連合艦隊は周辺にいた全艦に出撃命令を下した。潜水艦もこの命令に従ったため、一木支隊は無線連絡ができなくなったのだ。 連合艦隊参謀長の宇垣纒は、ミッドウェー海戦でアメリカ艦隊に大敗した復讐に燃えていた。宇垣の日記には、アメリカの艦隊をおびき出すため、ガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されている。 「陸軍を種とし、囮(おとり)となす」(宇垣の日記) 陸軍が米軍と戦えば、救援のためアメリカの空母が駆けつける。そこを叩こうというのだ。 アメリカの空母部隊を誘い出し、殲滅することを最優先に考えた海軍。一木たちの陸軍部隊をおとりにすることも作戦のうちだった。. オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争 を元に構成しました。 photo:Wikimedia, public domain アイキャッチ画像:空母エンタープライズとアメリカ海軍爆撃機「SBDドーントレス」(1942年12月19日). 激戦地だったとは聞いていましたが、ガダルカナル島が. 第2師団による10月24日・25日の総攻撃は完全に失敗したが、大本営も第17軍もガ島の奪回を諦めた訳ではなかった。 しかし、駆逐艦で細々と補給される食糧と弾薬では攻撃の方法がなかった。. 同26日総攻撃は中止され、以後各残存部隊が同島各地で持久戦を展開し、翌年2月の撤退まで. ガダルカナル戦、古谷経衡の的外れな指摘 先日、テレ朝「モーニングショー」で玉川徹が 政府のコロナへの対応のぬるさを 「戦力の逐次投入で日本軍は敗けた、それと同じ」 と批判していた。.

第三次ソロモン海戦は第38師団を11隻の輸送船に乗せてガ島へ急いでいた11月12日から14日にかけて起こった。 連合艦隊はこの輸送を側面支援する為、第11戦隊の戦艦「比叡」「霧島」をガ島飛行場の砲撃に派遣したが、12日真夜中に米艦隊と遭遇、近接戦となり、混乱のまま両者互いに撃ち合い、「比叡」と駆逐艦「夕立」「暁」が沈没した。 米軍側は防空巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」の他、駆逐艦4隻を失った。 海軍作戦部戦争計画部長リッチモンド・k・ターナー提督は「海戦史上最も過酷な戦闘」と評した。. 太平洋戦争で日米が激しく戦った南太平洋のガダルカナル島。この地の波打ち際に、77年間、民間の輸送船が打ち上げられ. ガダルカナル戦を、ここまで書いた本はありません。 この戦いをした、日本海軍、陸軍を見ると、プロの軍隊とは甚だ言い難い。 情報力の欠如と面子ばかりの、無理に無理を重ねた作戦は、開戦当初の日本軍の姿は無い。. ガダルカナル周辺の海底に、日本軍の輸送船・宏川丸が当時の姿を保って沈んでいる。艦内には戦車のキャタピラや軍用車のタイヤがのこされており、輸送船は武器や食料を積んだまま撃沈されていた。一木支隊が全滅した後、米軍は飛行場をさらに拡張して戦闘機の数を増やし、日本軍の輸送船が島に近づくたびに襲い掛かったのだ。 食料の補給が途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ることになる。戦いで重傷を負った工藤喜一さんは、手当を受けるうちにまわりの兵士の異常に気付いた。 「怪我をしてない者がね、私より弱くなってるんだな、食わず飲まずで。もう食い物もなくなってねえ。ミミズ、ミミズまで食べた。目の前で死んで、かわいそうで。」(工藤さん) 兵士たちは次々と飢餓に倒れ、命を落としていく。 そんな状況の中、大本営では陸海軍が決裂していた。ガダルカナルに関わっている場合ではないとする海軍はガダルカナルを放棄。島で戦っている将兵は見捨て、米艦隊との戦いを優先させた。 日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊全滅の半年後。この間に15,000人が飢えと病で命を落とす。 米軍はその後も次々と太平洋の島々に上陸し、日本軍を追い詰めた。日本は陸海軍の対立が続く中、人命を軽視する戦いを続ける。そして終戦までに、犠牲者は300万人を超えた。 毎年夏になると一木大佐の長女、安藤淑子さんは千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れる。部隊全滅の責任を問われ続けてきた父。兵士たちと共に、この場所に祀られている。組織の狭間で「無謀な戦い」を強いられた一木支隊。父たちの冥福を今年も祈る。 「父は最後を迎えるときを、いったいどいういう気持ちでいたのかなと思いますね。いろいろ犠牲になられた方々の、どんな思いでみなさん亡くなっていったのかなと思うと、本当にやりきれないという感じですね。」(安藤さん) 日米の激闘で「地獄の戦場」と化したガダルカナル島。日本軍の組織の論理が悲劇の指揮官を生んでいた。.

5に引き続きガダルカナル島をめぐる戦いの後半を取り上げています。 Vol. Amazonで吉田 嘉七のガダルカナル戦詩集―定本 (1972年)。アマゾンならポイント還元本が多数。吉田 嘉七作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. こうしてガダルカナル島をめぐる戦いは、日本軍の撤退により終了しました。日本軍は陸海軍合わせて3万人強の兵を島に送り、そのうちの2万人以上の犠牲を出したにも関わらず、ついに飛行場を奪回することはできませんでした。 海戦ではしばしば戦闘に勝利を収めましたが、肝心の飛行場の撃破や陸上部隊への物資輸送といった作戦目的は常に達成できず、戦いを重ねるたびに全体として日本軍に不利な状況が積み重なっていきました。 半年に及ぶこの戦いで、日本軍は多くのパイロットと航空機、艦船(特に駆逐艦と輸送船)、将兵を失いました。 パイロット、将兵、航空機の被害が戦闘力に大きな影響をもたらすのはもちろんですが、海上作戦の手足となる駆逐艦と、物資運搬の要である輸送船を大量に喪失したことは、日本軍の作戦遂行能力が根本的に落ちていくことを意味していました。 連合軍も多くの犠牲者を出し、特に海戦においては多くの艦船を失ったものの、なんとか飛行場を守り抜くことができました。 これにより、ソロモン諸島における制空権確保を有利に進めることが可能となり、さらに北方のラバウル、西のニューギニアの日本軍を追い詰める糸口を得ました。 同時に、これまで日本兵を恐れる気持ちが強かった連合軍の将兵にとって、勝てる相手であるという自信を持たせる結果となりました。.

次いで13日真夜中、密かにガ島に近づいた重巡洋艦「摩耶」「鈴谷」はガ島飛行場に合計約1000発の20cm砲弾を撃ち込んだ。 ガ島飛行場の混乱に乗じて第38師団の輸送船団を接岸させようとしたのだが、船団は14日朝、空母「エンタープライズ」から発進した艦載機の集中攻撃を受け、7隻が沈没した。 前夜、ガ島飛行場を砲撃した艦隊も攻撃され、重巡洋艦「衣笠」が沈没した。. そして同年6月16日、日本側が総力を挙げてガダルカナル島を空襲した「ルンガ沖航空戦」で大敗を喫したのを境に、零戦の戦いはほぼ防戦一方の. 陸軍は一木支隊先遣隊の全滅に驚きながらも、8月末、川口支隊(第18師団の第35旅団司令部と第124連隊基幹、旅団長・川口清健少将指揮、約6500名)をガダルカナル島へ派遣した。 岡明之介連隊長と第2大隊はタサファロングに、川口旅団長と残り二個大隊はタイポ岬に上陸した。 実兵力は約3000人であったが、両者で挟み撃ちの様にして飛行場を奪い返そうとした。. . 日本海軍の金剛型高速戦艦かく戦えり。日米のソロモン海におけるガダルカナル攻防戦を戦艦の砲撃戦を中心に描いてい. ガダルカナル Guadalcanal.

この第38師団の上陸直前に、第17軍司令部が推定した所では、ガ島にはそれまで27000人が上陸し、19000人が生きていると推定された。 しかし、戦闘に耐えられる平氏は約800人程度だった。 丸腰のまま上陸した第38師団も一か月後には同じ運命をたどる事になるのだ。 そういう中にあっても、当然、米軍の掃討作戦は続けられる。 ジャングル内のある患者収容所では患者と守備部隊の計488名が戦死した。 11月30日の事だという。. 食糧の補給が殆どなく、マラリアに罹りながらも戦いを続けなければならなかったのは、ポートモレスビー攻略部隊(南海支隊)も同じだった。 腹をすかし、マラリア熱でだるい身体を鞭打ち、途中に待ち構えるオーストラリア軍の小部隊と戦い、約1000名の犠牲を出しながら、ポートモレスビーの街が見える地点に達したのは9月半ばである。 イオリバイオであった。 しかし、そこまで進出した南海支隊に対して、第17軍は撤退を命令した。 ガ島への手当てに忙殺されていて、南海支隊への補給に自信を失っていたのだ。. 「ガダルカナル戦の経緯」の内容を参考にされて、Web上の記事や出版物として作られたものを紹介いたします。 「戦史で学ぶ経営改革―ベンチマーキングから見た太平洋戦争」. 作戦失敗の知らせがラバウルの陸軍司令部に届く。一木支隊の派遣に不安を抱いていた参謀長の二見は、日記に「夜12時。一木全滅の報あり。寝られず、寝られず」と綴っている。 一方、海軍側の反応はまったく異なるものだった。宇垣参謀長の日記には「陸軍が敵を軽視したことが、作戦失敗の原因」と記している。海軍は、自分たちの行動が一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのだ。 陸海共同作戦とは名ばかりに、それぞれまったく別の戦いを進めた陸軍と海軍。部隊全滅の原因を見極めようとはしなかった。 ガダルカナルの空港奪還作戦は、一木大佐が責任をとって自決したとして幕引きが図られる。一木大佐の長女、安藤淑子さんは、父の部隊が全滅したと知らされたが秘密を守るよう軍に口止めされていた。 「とにかくね、誰にもそういう話はできませんから。表に出たらただ普通の顔をしているだけで。一番つらかったのは母だと思いますね。連隊の部下の方たちのご家族なんかも旭川に帰ってくるはずが帰ってないけれど、『何かご存じでしょうか』っていう問い合わせがしょっちゅう来るんですけど、母は『ちょっと分かりません』ってお茶を濁して返事をしていましたね。」(安藤淑子さん) 大本営はその後もガダルカナルに小出しに部隊を送り続ける。敗北を重ねるたび人数を増やし、結局、延べ3万人以上が戦った。一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は帰国も叶わず密林で戦い続け、さらなる悪夢が始まるのである。. ガダルカナル戦 日本軍将校の報告書と短歌、見つかる 会員限定有料記事 毎日新聞 年12月8日 07時45分 (最終更新 12月8日 17時54分). ガダルカナル奪還の第一陣は、一木清直(いち.

陸軍はさらに第38師団の約5000人をガダルカナル島へ上陸させることとしました。 この兵と重火器は、11隻の輸送船で運ばれたものの、途中でアメリカ軍の猛攻を受け、11隻の輸送船のうち6隻が沈没、1隻が引き返すこととなりました。残った4隻も陸に物資を引き揚げている最中に攻撃を受け、炎上。 引き揚げられた物資は米1500俵、大砲の弾薬260箱のみで、上陸した兵はほとんど丸腰でした。 第38師団上陸の前の時点で、ガダルカナル島の日本軍兵力は約2万人に達していましたが、飢えと病により、戦闘が可能な兵はわずか700~800人しかいませんでした。 海軍はなんとかガダルカナル島へ物資を届けようと何度も輸送を試みました。高速の駆逐艦や、発見されにくい潜水艦を動員して、少しずつ物資輸送を行いました。 これを日本軍は「ネズミ輸送」と自嘲し、連合軍は「トーキョーエクスプレス(Tokyo Express)」すなわち「東京急行」と呼んでいました。 11月30日に駆逐艦によって行った物資輸送では、ドラム缶に食料等を詰め、島の岸に近づいたらドラム缶を海に投げ込み、陸側からロープで引っ張るという方法をとることに. ソロモン諸島ガダルカナルの地上戦について研究しております。 日本の為、南冥の地で「草生す屍」となられたご英霊を忘れぬように記録を残して行きます。. 輸送は、ガ島への弾薬食糧を詰めたドラム缶を駆逐艦がタサファロング沖合まで運び、そこで海上投下して陸上部隊が小舟に拾い上げるという方式によった。 米軍はこの輸送駆逐艦隊(第二水雷戦隊。田中頼三少将指揮)を「トウキョウエキスプレス」と呼び、海軍は自嘲気味に「ねずみ輸送」(敵の目を盗んでコソコソとやるから)と呼んだ。 11月30日、それ海上投下中に米艦隊と遭遇、たちまち海戦となった。 結果は、駆逐艦一隻を撃沈されたものの、重巡洋艦「ノーザンプトン」を沈め、他の2隻の重巡洋艦に大被害を与え、日本の勝利とされている。.

当初の計画では、大軍を持って海岸沿いにマタニカウ川を渡り、さらにルンガ川を越え、雪崩をうって飛行場に殺到するという作戦が立てられた。 ところが、その準備をしている内に、米軍は先手を打って攻撃し、準備中の日本軍の一個連隊(第4連隊約3000名)をほぼ壊滅させ、マタニカウ川の対岸に強固な陣地を敷いてしまった。. そもそも、なぜガダルカナル島で戦ったのか? その頃、海軍はアメリカとの長期間の消耗戦を避けたく、陸軍は、アメリカとの戦いよりも、中国における戦線の拡大のほうが重要であり、アメリカとの戦いにあまり陸軍の兵力を出したくはなかった。. ガダルカナルの医療. 日本からおよそ6,000km、南太平洋のガダルカナル島は、日米が初めて総力戦を行った戦場だ。今から77年前、日本軍が作った島で唯一の飛行場を巡って日米は激突する。 真珠湾攻撃によって連合国との全面戦争に突入した日本は、米軍の拠点ハワイとオーストラリアを結ぶ線上にあるガダルカナル島に着目した。ここで制空権を得れば連合国を分断し、さらに優位に立てると考えたのだ。800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずだった。 危機感を募らせたアメリカは飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画する。そして、血で血を洗う戦いが繰り広げられ、のどかな南の島ガダルカナルは死者2万人以上の「地獄の戦場」となったのだ。 米軍の飛行場占領作戦を記録した未公開フィルムが残されている。10時間に及ぶ傷ついたフィルムをデジタル処理で復元し、高精細の4K映像で作戦の実態がよみがえった。 1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島に上陸し、1万人の兵力で完成間近の飛行場を占領。米軍機を迎えるため整備を進めた。そして、飛行場奪還に現れた日本軍を圧倒的な火力で撃退。日本兵はわずか900人で10倍の米軍に挑み、“全滅”した。 このとき全滅したのは、陸軍屈指の精鋭と言われた一木支隊。兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り無謀な作戦を強行したとして、非難を浴びてきた。 一木大佐の遺族、長女の安藤淑子さんは現在90歳。父が一木大佐であることをひた隠しにして生きてきた。今回始めて、これまでの思いを語る。 ガダルカナル 戦 「社会に出てから私はひと言も、父のことを話したことがないんですよ。(父は)亡国の民の代表だっていう風潮が強かったですからね。だから私は身分を探られるというのは一番怖かったんですよ。」(安藤さん). なぜ一木大佐の部隊は、全滅へと至ったのか。そこには、日本軍の組織が抱える問題が影を落としていた。 8月7日、米軍のガダルカナル島上陸の知らせは直ちに大本営にもたらされた。そして、陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦を練る緊急会議が開かれた。この会議で海軍は、陸軍との共同作戦を提案する。 この2か月前、海軍はミッドウェー海戦で敗北。空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた。一方の陸軍は、中国やアジア各国で連戦連勝を重ね、向かうところに敵はないと自信を深めていた。陸軍は海軍の提案を受け入れ、ガダルカナルの米軍から飛行場を奪還すべく、本格的な陸海軍共同作戦を行うことが決まる。 陸海軍はそれぞれ、連合艦隊と第17軍に作戦準備を命令。海軍は艦隊と航空隊を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦を立てる。このとき、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を挙げた一木大佐が率いる総勢2,000名の一木支隊だった。 隊員の多くは、北海道旭川近郊の農家出身。20代の若者たちは厳しい訓練を経て精鋭部隊に生まれ変わった。ほぼ全滅だった一木支隊で数少ない生存者の元隊員、101歳の工藤喜一さんが当時を振り返る。 「米軍は実戦経験に乏しく、一木支隊の勝利は確実と皆が感じていた。必ず飛行場を奪還しなきゃならない。とにかくね、負ける気持ちは一つもなかった。戦えば勝てると思って、その信念がね、あったから。」(工藤さん). ガダルカナル島をめぐる状況は好転せず、上陸した部隊の飢えと病の状況はひどくなる一方でした。死んだ戦友の肉を食べ、食糧を奪い合うなど、戦争をする部隊とは言えないほどになっていました。 これ以上の作戦続行は行えないので、どのようにすべきか大本営では議論がされました。救出するにも、艦船が近づくこと自体が犠牲を伴う可能性が高いので、見殺しにするべきという意見が当初多くありました。 しかし、ラバウルの陸軍第八方面軍司令官、今村均中将の強い反対もあり、最終的に12月31日に開催された御前会議(天皇出席のもと開催される日本の方針を決める最高会議)において、ガダルカナル島の部隊を撤退させることが決まりました。 撤退作戦は1943(昭和18)年2月1日、4日、7日に行われました。この期間は月明かりがなく、夜間の行動が敵に発見されにくいためです。 この撤退作戦の間、アメリカ軍は不思議なほど攻撃を行わず、無事に約1万人の将兵がガダルカナル島から脱出することができました。. しかし、本来海軍の目的はガダルカナルに押し寄せた輸送船団を叩き物資の補給を経つのが目的だったのに艦隊同士で砲撃戦を行っている間に輸送船団によって武器や食料などの大量の物資が上陸した海兵隊に届き、米軍は長期戦の準備が整ってしまい.

. 第38師団の輸送を助けるために、連合艦隊はガダルカナル島飛行場に戦艦による艦砲射撃を加え、飛行場を使用できなくする作戦を立てました。 11月12日から15日にかけ、二度にわたり日本艦隊はサボ島を過ぎ、飛行場そばの海域まで夜間忍び寄りました。その都度、警戒に当たっていたアメリカ艦隊と激戦になり、日本側は敵の艦船を多数撃沈するも、戦艦2隻(比叡、霧島)を撃沈されてしまいました。 敵艦船との戦いで相当の被害をこうむり、飛行場への砲撃をすることはできませんでした。. ガダルカナル島では、島の争奪戦が続いていた。その重大な状況のもとで、十月二十二日、山本長官は、全連合艦隊兵力を、ガ島支援のためサンタクルーズ島の北方海面に向って南下させた。 最高指揮官は近藤中将であった。. 11月16日ブナ南方オロ湾に米軍1000人が上陸した。 周辺は東からブナ、ギルワ、バサブアに日本陣地がありブナ地区と総称されていた。 オーストラリア軍に追われて退却中の南海支隊は、その地域を目指していたのだが、米軍に先回りされてしまった。. 11月14日、新しい兵力として第38師団主力約5000人が、11隻の輸送船に分乗してガ島へ到着しようとしていた。 しかし、米軍は接岸寸前にこの輸送船団を空襲して、7隻を沈没させた。 将兵は大部分が駆逐艦に救助されたが、兵器弾薬、食料は全て沈んでしまった。 残りの4隻は岸に乗り上げたが、陸揚げされた物資は食糧1500俵と、野砲・山砲弾薬260箱に過ぎなかった。 5000人の大部隊が殆ど丸腰で上陸してしまったのだ。.

飛行場の奪還をめざした陸海共同作戦で、海軍の側はどう動いたのか? 海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まった。指揮官の三川軍一中将は闇にまぎれた奇襲を決断する。攻撃目標は、米軍の占領部隊に武器や食料を届ける輸送船団。空母や巡洋艦に護衛されていた。 夜10時50分、連合艦隊はアメリカの艦隊を発見。夜襲に参加した元海軍兵士の荒木政雄さんが当時の様子を語る。 ガダルカナル 戦 「やっぱり怖いですよね。真っ黒い、本当に真っ黒い先、一寸先は分からないぐらいですね。探照灯落として、ばーっと途中明るくなったんです。敵の船がそこにいるじゃないですか。それと同時に打ち方はじめ、大砲打ち方はじめ、魚雷発射はじめですもんね。」(荒木さん) 夜11時38分、攻撃開始。連合艦隊はクインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他3隻に大ダメージを与えた。ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍の勝利は大々的に報じられる。 しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯していた。空母や巡洋艦への攻撃を優先すべきと判断し、当初の目標だった輸送船団を見逃していたのだ。米軍は補給が途絶える危機を脱し、飛行場占領部隊は武器や食料を受け取る。 ラバウルの陸軍第17軍司令部はこの海軍の判断を非難した。一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将は、今回初めて公開された手帳に、海軍への痛烈な批判を綴っている。 「(海戦勝利の)ニュース海軍大々的に報ず。やり方なまぬるきこと多く全くキガシレズ」(二見少将の手帳) 海軍のミスで米軍の戦力は増強され、戦いに向かう一木支隊にとって不利な状況が増していた。共同作戦と言いながら、攻撃の優先順位が食い違う海軍と陸軍。大勝利の影で亀裂が生じようとしていたのだ。. ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと指摘されており、川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられ. ガダルカナル島への空からの援軍は、日本海軍の航空基地のあるラバウルから飛んできていました。 しかし、航続距離の長いゼロ戦をもってしてもガダルカナル島上空では帰りの燃料切れを気にしながらの戦いになります。. 第七話 ガダルカナル戦.

の日本軍総兵力3万1400名中2万800名が「戦闘損耗」、その内訳は「純戦死」5000~6000名、「戦病に斃れた」者1万5000名前後、と. 8月18日、一木支隊の先遣隊、916名が無血上陸に成功する。米軍が占拠する飛行場までおよそ35kmの道のり。しかし、行く手に残酷な運命が待ち受けていることを、兵士たちはまだ知らなかった。 これまで謎に包まれてきた一木支隊の島での行動だが、その詳細を示す新史料がアメリカで見つかる。合わせて1,000ページを超える米軍の機密文書だ。米軍陣地の突破を図った一木支隊が反撃を受けて殲滅されるまでが、分刻みで記録されていた。 陸軍屈指の精鋭部隊だった一木支隊の全滅。その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が米軍の兵力を見誤ったことだった。 海軍航空隊による偵察で米軍艦艇は1隻も見当たらなかったことから、参謀たちは「米軍の主力部隊は撤退した」と判断。米軍の数を2,000人と見積もる。ところが、実際の米軍の兵力は10,900人。致命的なミスが生まれていた。 謎をさらに深める史料も見つかっている。日本海軍が、アメリカに潜入したスパイから得た極秘情報だ。 「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて、南太平洋方面へ向かった」(スパイの極秘情報) 海軍は偵察にあたった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいた。海軍参謀の佐薙毅は、輸送船団の数から米軍は1個師団15,000人だと、ほぼ正確に見積もっている。それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した海の戦い(第一次ソロモン海戦)の勝利だ。戦果を受け、陸海軍の参謀は米軍兵力の見積もりを削減。輸送船団は大部分の兵を乗せて撤退したとみて、残る兵力は2,000人と考えた。 だが、一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持つ。二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍が8,000人はいると見ていた。初公開の手帳にも記している。 ガダルカナル 戦 「海軍急ぐも不安。一木隊ヤレズ」(二見参謀長の手帳) 二見参謀長は敵の数がはっきりしない中で攻撃をせかす海軍に不安を抱き、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていた。ところが、陸軍参謀本部のナンバー2、参謀次長から電報が入る。 「速やかに(飛行場を)奪還することを考えよ」(参謀次長からの電報) 米軍機が配備され、戦況が不利になる前に飛行場を奪還せよというのだ。二見参謀長は大本営が命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかなかった。.

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